熊 谷 直 実 公 年 表
   周  辺 事  情 年  代    直 実 公 の で き ご と年令
源義家と武蔵武士ら奥州征伐(1058年)1053年(天喜1) 騎西より私市氏、大里の地に土地を与えられ熊谷氏の始祖となる。
平盛方の息子。政変で京を追われ武蔵へ1100年(康和2) 平直貞・京より熊谷に来て熊退治。3代目の熊谷氏に。
 1141年(永治1) 2.15直実生まれる。母久下直光の妻の姉。幼名は弓矢丸。
1146年清盛安芸の守1142年(永治2) 父直貞の死、直実は久下氏に預けられ育てられる。
 1155年(久壽2) 元服。
 1156年(保元1) 保元の乱、源義友に従い初陣(活躍するが敗退)。
 1159年(平治1) 平治の乱に出陣(敗退)。
1167年清盛太政大臣・トップに。

1175年法然上人浄土宗開く。

11月:頼朝再挙。

8月:石橋山にて源頼朝挙兵。
1169年(嘉応1)

1180年(治承4)

 小次郎直家生まれる。
 久下直光の代理で京都大番役。平知盛に仕える。無断な行動に久下直光
怒り、熊谷郷の一部を奪う。

 直実家のホヤにむかい鳩(家紋のいわれ伝説)。

 直実、頼朝に従う。常陸の佐竹氏を攻め先陣をつとめ功労。
 1182年(寿永1) 頼朝、直実の功労を称え、久下氏押領を止め熊谷郷の地頭職を与える。
 1183年(寿永2) 熊谷次郎丹治直実と称す。
頼朝、木曽義仲を攻める。1184年(元暦1) 1:木曽義仲を追討。直実親子、範頼に従い出陣。
1185年平家壇ノ浦にて滅亡  1:義経に従い宇治川の戦い。直実親子戦功を立てる。

 2.7:一の谷の戦いで、義経に従い平の敦盛を討つ。

 2.8:敦盛の遺品と書状を父・平経盛に送る。

 2.14:平経盛、直実に感謝の心で返状。
 1186年(文治2)法然上人の「大原談義 」に追随。上人を守るため武装していく。45才
頼朝、長野善光寺再興の令、
浄土宗宇治集の高僧多く訪れる。
1187年(文治3)鎌倉八幡放生流鏑馬的立役を不服として辞退。頼朝怒り、所領の一部を没収。46才
 1188年(文治4)息女玉鶴姫。母の菩提を弔い善光寺に向かう。(仏導寺・姫塚)47才
義経藤原泰衡に殺される1189年(文治5)息子直家、頼朝に従い奥州に出陣。48才
 1190年(建久1)敦盛7回忌を期し高野山熊谷寺を建立、山内に供養塔を。49才
 1191年(建久2)嫡男・直家に熊谷の郷20町歩を譲渡。50才
頼朝征夷大将軍に1192年(建久3)久下直光と領地争い、幕府に訴状、頼朝の裁判を不服とし頭髪を切り出奔。
熊谷にもどり隠居。
51才
 

1193年(建久4)京都・黒谷、法然上人の元で出家、蓮生と名乗る。
九条兼実邸で法話が聞きとれなくて、こんな差別は浄土にはあるまいと
大声で呼ばわり、中に入れてもらう。
52才
 1194年(建久5)岡山-美作国に法然上人のために誕生寺を創建。53才
 1195年(建久6)帰郷・逆さ馬で東行、静岡・藤枝で「十念質入」。54才
 1196年(建久7)京都に戻る。55才
1199年頼朝の死。頼家将軍。1198年(建久9)粟生光明寺に「念仏三昧堂」粟生光明寺開基。初代は法然、直実2代とする57才
幕府混沌の時代やがて北条体制。
親鸞上人法然門下に。
1204年(元久1)鳥羽にて上品上生の発願。63才
二股川にて畠山重忠討たれる。1205年(元久2)熊谷に帰郷。64才
法然教団弾圧1206年(建永1)村岡にて往生の予告の立て札。65才
法然・親鸞上人流罪1207年(承元1)2月予告往生延期。 9月4日大往生。66才
法然上人の死1212年(壬申2)