800年前にタイムスリップ

直実公と生きた熊谷の武士たち


 久下氏 ・東竹院(市内久下1834)

 当初は、今、荒川河川敷となっている場所にあった
が、火災などのためにこの地に移動した。久下氏の菩
提寺で曹洞宗。境内には久下直光・重光の墓がある。
久下氏は私市党の一族。熊谷氏の祖・直季の叔父にあ
たる。平安末期に久下の郷・古城の地に館を築いた。
直実が早くに父を亡くしたため、母方の縁で、幼い直
実を養育したといわれる。元服後、領地をめぐり、何
度も争われることになる。久下一族は後、丹波国に領
地替えされた。
   

    肥塚氏は熊谷氏の始祖・直季の弟。肥塚一帯を治めた。
   直実が兵を挙げるとき、その配下として活躍したといわれ
   る。稲荷神社と成就院一帯が館であったといわれる。村内
   に肥塚殿の古碑があるという。室町時代には足利義満に仕
   え10代340年も栄える。後に、播州に移る。
         箱田氏は成田太郎の子・広能が始祖。
        保元の乱で戦死。成田領地の上ノ村
        に隣接し勢力をふるった。村内に箱
        田三郎の古墳もある。




 成田氏は平安時代末に上之堀の内に住み一帯を
治める。始祖・助高は成田太夫、その4人息子は、
太郎が成田氏を相続、弟達は別府氏、奈良氏、玉
井氏となる。成田太郎は保元の乱で活躍。成田五
郎は一の谷の合戦で平山氏と直実とともに先陣を
争う。成田氏の後裔、忍城主・成田氏長につなが
る。上之には菩提寺・龍淵寺の他、成田氏ゆかり
の神社仏閣・史跡が多い。




  中条常光はその昔、京の都からつかわされた役人だ
 ったが、中条に土着。その孫・家長は頼朝挙兵ですぐ
 に石橋山に参戦。一の谷や壇ノ浦でも手柄を立てる。
 頼朝亡き後も頼家や実朝にも仕えた。「貞永式目」の
 作成メンバーとして評定衆に加わる。家長は祖父の追
 善供養のために屋敷の一画に寺院を建立した。それが
 常光院である。