第二幕:文学演劇にみる直実さん






んせい")と名乗り、黒谷(くろだに)の法然(ほうねん)を師と仰ぎ、
教えを受けようと思う。」と義経に別れを告げ、花道に来ると「今
ははや、何思うことなかりけり。弥陀(みだ)の御国(みくに)へ行く
身なりせば・・・16年はひと昔、夢だ・・・夢だ・・・」の科白(せりふ)を残
し去っていきます。

  小鹿野歌舞伎保存会

 謡曲「敦盛」では、直実は蓮生の姿でワキとして登場する。
 「これは武蔵の国の住人熊谷の次郎直実出家し、蓮生と申す法師
にて候、さても一の谷の合戦において、敦盛を手に掛け申ししこと、
あまりにおん痛はしく候ふほどに、かやうの姿となりて候、またこ
れより一の谷に下り、敦盛のご菩提を弔い申さばやと思い候」と、
敦盛を討った心の内を語っている。この思いこそ師法然をして"坂東
の阿弥陀仏"と言わせしめた所以である。


 また、長編「大菩薩峠」で有名な中山介山は、「黒谷夜話」の中
で直実にこう語らせている。
  笑いたければ笑え、おれは実際涙もろいのだ、戦場へ出ても人
一倍辛い思いばかりして来たのだ。木曾征伐の時、宇治の橋桁を渡
る時だってたまらない、弓矢取る身が情けなくなってしまったのだ。
一の谷で小次郎が薄手を負うた時さへもわが身を裂かれるよりも苦
しく思ったのは欺りではない。小次郎と同じ年頃の敦盛の首にどう
しても刀が立てられなかったおれだ。よく考えてみると、おれは泣
き通しで戦をしてきたのだ。それが周囲の者から見ると、天晴勇士
豪傑の振舞らしく見えたものだそうな、鎌倉殿から日本一の剛の者
と折り紙をつけられておれはくすぐったい思いがした。

これらの作品に触れるたびに思うのは、親子兄弟までが敵味方にな
った戦国の世において、直実ほど他人を思いやることのできる人は
いなかったであろうということである。言葉を変えれば、直実は戦
の先駆けだけでなく、ヒューマニストとしても魁だったのかも知れ
ない。


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