第二幕:文学演劇にみる直実さん






















 狂歌で有名な蜀山人も直実を題材にしている。
   熊谷上町(本町1丁目)から横町(鎌倉町)に曲がる角に「角
屋」という饂飩屋があった。この店に早朝訪れ注文すると、番頭に
「こんな早くからうどんはない」と断られた。そこで、熊谷寺門前
の方へ立ち去ろうとすると、この店の主人が「こんな朝早くからう
どんを食べにくるのは余程好きな人に相違ないから呼び戻してだし
てやれ」と言うので、番頭が店先に出て呼び戻した。
   このことを蜀山人は
    おぉいおぉいと呼び戻し わづか二八の敦盛を
 打って出したる熊谷の宿
   という狂歌に残している。
   うどんの値段が二八の十六文であったのを、敦盛の年齢十六
歳に掛けて詠んだものである。

   余談になろうが、熊谷は古くから小麦の名産地であった。江
戸から明治にかけて権田愛三という人がその増産技術を開発し、全
国に広めた。それゆえに彼は「麦王」とも「麦翁」とも呼ばれ、生
地(熊谷市別府)にある公園には顕彰碑が建てられている。
   今、熊谷では、愛三が心血を注いだ小麦を見直そうという気
運が高まり、地元の小麦を使った「熊谷うどん」を開発、販売する
に至っている。

   第45〜48代(1956.7〜1972.7)埼玉県知事栗原浩(1900.1.16〜
1978.8.24)が作詞した「直実節」は、踊りの振り付けもあり、当時
から広く愛唱されている。
現在でも、熊谷市内の小学校では運動会などで踊られている。
「直実節」   栗原ひろし:作詞
   1 秩父の峰の雪白く 名も荒川の風寒し
     ここ武蔵野の大里は 関東一の旗頭
     直実公のふるさとぞ
        一の谷の軍破れ 討たれし平家の公達あわれ
        暁寒き須磨の嵐に 聞こえしはこれが青葉の笛
   2 源平須磨の戦いに 花も恥らう薄化粧
     智勇兼備の将なれば 敦盛の首討ちかねて
     無常の嵐胸を打つ
   3 人生うたた五十年 夢まぼろしに似たるかな
     今は栄位も何かせん あまねく人を救わんと
     その名も熊谷蓮生房
   4 流れて早き年月に 武蔵野山河変わるとも
     坂東武者の精神(こころね)は われらが胸に今もなお
     生きてぞ通う直実ぶし