熊谷直実公の生涯
日本一の剛の者から関東の阿弥陀仏に

漆間 淳郎(熊谷寺:副住職)
「直実・蓮生まつり」事前勉強会より


ここ熊谷寺は熊谷直実公が開いたお寺ではありません。法力房蓮生法師が開かれた
お寺です。みなさんご存じと思いますが、熊谷直実公の出家後のお名前です。今日
はこの蓮生法師のことについて簡単におはなしさせていただきたいと思います。
蓮生法師はここ熊谷の地に1138年に熊谷直定の次男として生を受けます。幼名は弓
矢丸です。父親の直貞公は若くしてお亡くなりになりました。長男は体が弱くすで
に若くして亡くなってしまってましたので、直実公が2歳で家督を継ぐこととなり
ます。何分2歳の子供ですので、家督を継ぐといってもどうしたらいいのかわから
ない、そこで叔父に当たる久下直光公の世話となるわけです。この久下直光公との
間に、後に直実公が最終的に出家をすることとなった事件が起こります。このこと
は後でお話しさせていただくこととします。
直実公の初陣は1156年に起こった保元の乱、天皇家の権力争いに源氏平氏が絡ん
で、親子兄弟分かれての戦いです。直実公19歳のときで、直実公は源頼朝公の配

下に入り、十七騎随一との賞賛を得ます。十七騎
のなかで一番の活躍をしたという意味です。そして、
続いて起こった平治の乱では、一騎当千との賞賛
を得ます。直実公の騎馬一騎で千の兵力に相当す
るというほどに讃えられます。
しかし、源氏についたこの戦い、敗れます。時代
の流れもあり、平家方についた直実公は1180年に
源頼朝が石橋山で兵を挙げたときに頼朝公に弓を
向ける事となります。頼朝公はこの戦いでは敗れ、
森の中の大きな木の洞にかくれているところを直
実公に発見されます。
が、直実公は頼朝公を討ち取るこしませんでした。
そばにあったホヤの枯れ枝でその入り口を隠します。
後から来た仲間が疑わしくしていると、「源氏の
頭領ががこんなところに隠れているはず無いじゃ
ないか」と。それでも仲間は疑わしく思い、その入り口を刀で突ついてみます。
すると野生の鳩が2羽飛び立っていったのです。「野生の鳩がいるような処に人はい
ないであろう」と納得してその場を去っていった。

熊谷家文書ではこのように伝えられています。頼朝公の命を助けたのは熊谷直実公
である、と。小説などでよく書かれているような梶原景時公ではない、と。その証
拠が後に直実公は頼朝公から陣幕を拝領しています。
その陣幕に記された紋が「ホヤに向かい鳩」という紋で、これを熊谷家の紋とする
ように、との命があったと伝えられています。こののち直実公は、頼朝公に従うこ
ととなります。

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