更に、池の中より只一本の金色の蓮が、するすると伸び、その茎は長 く、天高く伸び、極楽浄土まで届いた、という夢を見ます。
この夢は、坂東の人、京の人たちが見た夢と全く同じで、蓮生のこの願は、誠な りと人々の耳目を驚かしたのです。
この蓮生法師、1206年、ここ熊谷の村岡の辻に高札を立て、「翌年2 月8日に往生すべき仏勒を給わった。疑うものは来たり見るべし」と 往生を予告します。
しかし、この2月8日には往生ならず、改めて9月4日と定めます。 集まった人々のなかには嘲り笑う者もいたが、
蓮生は弥陀の思し召しとて、一向に気にせず、むしろ今生での念仏行にさらに邁進し たそうです。
その9月4日朝より蓮生は沐浴し、袈裟を着け、上人より授かった迎接曼荼羅の画
をかけ、端座合掌します。念仏の声が高くなると、息が絶え、口より光明を放ち、
紫雲が軒にたなびき、音楽が聞こえ、四方に芳香が流れたのです。6日、棺に入れ
るとき、再び芳香、音楽の気端があり、紫雲が西より来たり草庵の上にとどまるこ
と一とき、やがて西を指して去って行きました。
 この光景を見た人々は、蓮生は間違いなく上品上生の往生をされたと語りました。
蓮生70歳の上品往生でありました。
最後になりますが、私、熊谷さんのことについてお話をするときに必ずお話しする
ことがあります。それは、熊谷さんとは直実さんではなく、蓮生さんとして一生を
終えたんだということです。
昨今、日本では「サムライ」と言う言葉をよく耳にします。日本人は武士道の精神
を思い起こすべきであるという論調が流行っています。 しかし武士とは江戸時代で
さえ、全人口の1割に満たかったんです。ある文献によるとたった7%だそうです。
こんな僅かな数しかいなかったのに武士の心を思い出せというのも無理な話です。
殆どがサムライではなかったのですから、思い出しようも何もありません。
それに武士とはそんなにすばらしいものでしょうか。強きを挫き、弱きを助ける、
主君のためなら命をも投げ出す、そんな格好良くもてはやされていますが、実際の
武士は違います。所領の安堵のため、地位・名誉のため、戦さでは多くの敵兵を薙
ぎ倒し、ときには親兄弟までもその手に掛け、多くの命を摘み取るのが武士なので
す。 熊谷直実もこの一人でしたが、彼は武士としての道を突き進むことを選ばず、有縁
無縁の衆生と共に蓮の上に生まれる道を選び、法然上人の門をたたいたのです。

歌舞伎「熊谷陣屋」の段の最終幕で、僧形で
去っていく姿があります。熊谷さんが最後に
選んだ道は、所領・地位・名誉を守る騎馬に
乗る剛々しい鎧姿の武士ではなく心を守る、
心の安住を求める墨染めの衣をまとった念仏
行者であった、ということを、心に留め置い
ていただきたいと思います。
関西の方では、熊谷さんのというと熊谷直実
ではなく、熊谷蓮生と出てきます。ところが、
寂しい話です。ここ関東の地では熊谷直実公
とは知っていても、熊谷蓮生法師という名は
あまり知られておりません。熊谷でもそうな
んです。事実、熊谷駅前にある銅像も「逆さ馬」
の銅像にしたほうがよっぽどインパクトがあ
って、話の種になり、注目されると思いますが、
どうでしょうか?

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