が、お咎めは一切無かったとのことです。なぜか? 最初の話で出ました熊


谷家文書、ここで頼朝公の命を救ったのは梶原景時公ではなく、直実公であったからなのです。
いずれにしましても、直実公は出家の意思は固く、翌1193年に法然上人の許を訪ねます。
法然上人が見えるのを直実は自分の刀を研ぎながら待っていたそうで、やが て、法然上人が見え、お話をされます。法然上人は「罪の軽重を問わず、た だ念仏さえ称えれば、極楽に往生することができる」とお教えになります。
それを聞いた直実は、さめざめと泣いてしまったそうです。不審に思った法然上人が尋ねると、
「自分のような者、多くの人を殺めてきた者は、手を切れ、足を切り落とせ、と言
われるものと思い刀を研いでいた。でも、そうしても助からないものと、地獄へ落
ちるものと思っていたが、念仏を称えるのみで救われるとのお言葉をいただき、う
れしくて涙が落ちてしまった」と答えたそうです。
このお言葉をいただいた直実、名を蓮生法師とあらため、欣求浄土の念仏行者とし
ての道を歩み始めることとなります。蓮生五十六歳のときのことです。
それからというもの、蓮生法師はお念仏にとても一所懸命でした。例えば、故郷の
熊谷に帰るとき、
阿弥陀さまのいる西に背を向けては失礼であると考え、馬に前後逆さまに乗り、お
念仏を称えながら京都から熊谷まで下ったと言われています。(東向逆馬と呼ばれて
います。)
また、静岡県の山中で追い剥ぎに金品や衣類すべてを与えてしまったことがありま
す。旅に困った蓮生法師が藤枝の宿の福井憲順という方の屋敷で金銭を借りようと
したとき、その質草としてお念仏を預けたというお話も伝えられています。この話
は「念仏質入れ」と呼ばれています。
蓮生法師が「ナムアミダブツ」と十遍称えると十体の阿弥陀さまが蓮生法師の口か
ら現れて、この主人の体内に納まったというお話です。
そして、翌年お金を返しにこの屋敷に訪れます。蓮生法師が「ナムアミダブツ」と
称えると、この主人の口から阿弥陀さまがでてきて蓮生法師の体内に戻った。この
主人のお願いで、最後の一体はこの主人の体内に留め置いたということです。
 この主人は、夫婦共々念仏の教えに帰依し、自分の屋敷を蓮生法師を開山として、
熊谷山蓮生寺としました。その後、この蓮生寺は親鸞聖人が立ち寄った際に浄土真
宗に帰し、現在東本願寺の末寺となっています。
そして、蓮生法師の所業で一番大きなものが、「上品上生の往生」※の願を立てた
ことです。蓮生法師は、鳥羽の一念寺上品上生の阿弥陀如来前にて、「我、上品上
生を願って極楽に往生す。その他の八品の往生は我が願にあらず」と堅き大願を起
こします。その理由は、自分一人ならば下品下生でもよい、往生できるだけであり
がたいことである、しかし、かつて一の谷にて敦盛卿に約束した。この世で縁を結
んだ人々を一人残さず極楽往生させ、なお無縁の者も救い上げたい、そう考えてこ
の願を立てたのです。
ある夜、夢の中に蓮生法師の上品上生の立願に異議を称える僧侶が現れます。蓮生
法師が「自分は、全ての人々を救いたいのだ。そもそも、これは阿弥陀さまの願い
と同じじゃないか。駄目だと申すなら、仏さまの言葉や、経典類はすべて嘘偽りと
言う事じゃないか。」と反論します。するとこの僧侶はスウッと消えていなくなっ
たそうです。この夢を見て、蓮生は自分の上品上生の往生は間違いないと確信した
そうです。

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